京都では「東西南北」が必須です。

こんにちは、スタッフ江口です。

京都をうろうろするときに意識しておくとよいことのひとつは、東西南北、「方位」です。

京都の人がどこかへ道を案内しようとするとき、「あの交差点をに曲がって」「あそこの角を折して」というような、左右を示す表現はあまり使いません。

かわりに、「あの通りをへ上がって、〇〇(交差点名)でへ入るねん」というように、東西南北の方位でルートを表現します。

その理由は、京都のまちが碁盤の目のように東西南北に区画されているからにほかなりません。

地図で見ると、誰かが定規で線を一本一本ひいて行ったのではないかと思うほど、美しく碁盤の目が形成されています。

平安時代の京都のまちを再現したジオラマ。都市部が碁盤の目になっている様子が読み取れる。

方位に忠実な都市「京都」は、いつ作られた?

では、ここ京都に碁盤の目のまちづくりがはじまったのは一体いつのことなのでしょう?

その答えは、「鳴くようぐいす平安京」で有名な「794年」です。

時の桓武天皇が、奈良の平城京から長岡京を経て、都を京都に移した、その時です。

今から1200年以上前のできごとです。

なぜ京都は日本の首都になったの?

桓武天皇が、京都を日本の首都に決めるにあたっては、当時から都市の繁栄に必要な要素と考えられていた「四神」、すなわち、北に丘陵(山)、東に流水(川)、南に湖沼(池)、西に大道(道)が存在すること求めたという説があります。

それら四神は、現在でも我々のまわりにごくあたりまえのように存在しています。

北の「丘陵」は、船岡山。今でもまちのなかにコンモリとした丘を形成しています。

船岡山の上から京都駅方面を望む。たった5分ほどで登れる山だけど、その景色は絶景。

東の「流水」は、鴨川。かつては頻発する氾濫に人々を困らせた暴れ川だったそうですが、現在は清らかに水を流す憩いの場になっています。

私がこのまちで一番好きな景色、鴨川デルタ。水と憩う人たちが自然と集まる場所。

南の「湖沼」は、巨椋(おぐら)池。こちらは、昭和初期に行われた干拓事業によって往時の姿は失われましたが、地名や地形などにその名残をふんだんに残しています。

こちらは「巨椋池まるごと格納庫」に展示されている埋め立て前の巨椋池の様子。戦時中の食料確保を主な目的として干拓事業が進められた。

西の「大道」は、山陰道。平安時代は日本海側の西部エリア全域の名称として用いられ、江戸時代には山陰街道や丹波街道と呼ばれる道路の名称としても使われることになります、現在では、国道9号線がほぼそのルートを踏襲しているのだそうです。

京都駅から10分ほどの場所にある「丹波街道町」。山陰道の変遷を感じられる貴重な地名。

方位ありきのまちづくり

桓武天皇は、新しい首都の候補地を探す段階から、方位を意識していました。

そして、実際にまちづくりをはじめるにあたっても、正確に方位を見極め、それを基準にまちに道をつくり、建物を配置しました。

平安初期の人々がで潔癖なまでに方位に忠実なまちづくりを行った成果が、今我々が生きる現代にも受け継がれ、京都のひとたちは、目的にまでのルートを伝えるときに、「左右」ではなく「東西南北」を使うのです。

京都へお越しになるときは、ぜひ、まちの方位に少しだけ意識を向けてみてくださいね。

きっと、京都のまちの深さを感じるきっかけになるはずです♪